記録#32 『詩という仕事について』偉大な文人による言葉と文章の本質論
アルゼンチン出身の作家・小説家・詩人でもあるホルヘ・ルイス・ボルヘス。
彼が1967-68年にハーバード大学で行った詩学の講義をまとめたのがこの作品です。
文学とは、物語とは、比喩とは。20世紀を代表する文人で言葉の本質を見つめ続けてきた著者からのメッセージが溢れています。
文章・書物は人と触れ合ってこそ。
言葉は、書物は、人に読まれることで世界として立ち上がる。
書物は、物理的なモノであふれた世界における、やはり物理的なモノです。生命なき記号の集合体なのです。ところがそこへ、まともな読み手が現われる。すると、言葉たち自体は単なる記号ですから、むしろ、それら言葉の陰に潜んでいた詩は息を吹き返して、われわれは世界の甦りに立ち会うことになるわけです。
(Kindle位置:146)
すっと入る比喩・暗示
なぜ詩作のなかで比喩・隠喩を用いるのか。それは、断定は論証を要求し、それは人を不審にし、逆の結論に導かれるから。
はっきりした物言いより、暗示の方が遥かにその効果が大きいのです。人間の心理にはどうやら、断定に対してはそれを否定しようとする傾きがある。エマソンの言葉を思い出してください。
Arguments convince nobody.
「論証は何ぴとをも納得させない」と言うのです。それが誰も納得させられないのは、まさに論証として提示されるからです。われわれはそれをとくと眺め、計量し、裏返しにし、逆の結論を出してしまうのです。
(Kindle位置:1,049)
言葉・辞書が思考を制約する
私たちは言葉によって思考をしています。思考をするためには、それに合わせた言葉が必要です。
自分自身の思考は自分の中に持つ辞書に制約を受けるし、誰かに物事を伝えるときには、その人が持つ辞書の中でしか内容を伝えることはできません。さらに言語を跨ぐと、正確な対応語がなかったりします。*1
しかし私たちは、相手と自分が同じ言葉の辞書を共有している、という誤解をまましてしまいます。
多くの思い違いのなかに、完璧な辞書が存在するという思い違いがある、あらゆる知覚に対して、あらゆる言説に対して、あらゆる抽象的観念に対して、人はそれに対応するものを、正確な記号を辞書の内に見いだし得ると考える錯誤がある、と。言語が互いに異なっているという事実そのものによって、そうしたものは存在しないと考えさせられるわけです。
(Kindle位置:2,504)
なぜそんなことになるのか。言語は、言葉は、それぞれの土地や人からボトムアップで立ち上がってきたものだから。
言語は学士院会員もしくは文献学者の発明品ではないという趣旨であります。それはむしろ、時間を、長い時間をかけながら農民によって、漁民によって、猟師によって、牧夫によって産み出されてきました。図書館などで生じたものではなく、野原から、海から、河から、夜から、明け方から生まれたものなのです。(Kindle位置:2,519)
作品をどうつくっていくか。誰、よりも、何。
書き手の立場も読み手の立場も離れて、何を書くか、何を伝えようとしているかに集中すること。
私は作品を書くとき、読者のことは考えません(読者は架空の存在だからです)。また、私自身のことも考えません(恐らく、私もまた架空の存在であるのでしょう)。私が考えるのは何を伝えようとしているかであり、それを損わないよう最善を尽くすわけです。(Kindle位置:3,702)
ボルヘスは、上記の講義をメモ一枚見ることなく行ったようです。
すごい。
言葉について改めて考えさせられる素敵な本でした。