記録#250 『禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄』
感じたこと
- 縁起はつながり、単なる因果関係のつながりではない。存在としてシステムであって、他に倚らない独立した存在はありえない。
- 坐禅に失敗・成功を判定せずに、ただ坐するという考え方は新鮮でした。そして、苦行ではなく、快適であるための坐というのは更に新鮮でした。
- 心身の自然の声に耳を傾ける、社会的な身分やこれまで積み上げてきたアセットを一度手放す「プチ出家」そんな坐禅を自分も組んでみたいなぁ
内容
- 序章:そもそも禅ってなんですか?
- 仏教には大きく大乗仏教、南方仏教、チベット仏教の3つが併存し、その中でさらに宗派が別れている。教義や修行法には相応の差異があり、これまでは地理的な断絶で棲み分けがなされていたが、米国や欧州などの地域では複数の宗派が入り混じり、それぞれの違いを意識せざるを得ない状況にあってきている
- 仏教においては、仏陀(釈尊)という開祖がいるものの、教義自体はその人ととは独立して存在しているとする。
- 仏教の根幹となる「縁起」の考え方は、自分や他の人や物が点みたいにバラバラに実体的に独立してあるのではなく、最初から全てがつながって存在している、というもの。かつそれは因果関係といういぽう敵で単線のつながりではなく、縁という間接的な条件も考慮に入れたホリスティックでシステム的なものである、という理解をする。
- 仏教の教義を伝える上で説法に頼らない、言葉を介さないで法を伝えることが禅の根幹。坐禅は禅に伝わっている最重要の行法のこと。
- 禅の4つの特徴
- 教外別伝:最終的な心理追及には自己の経験に基づく自身の価値基準が大切であり、以心伝心の真理や悟りを得る
- 不立文字:禅においての悟りは純粋に経験をして体感するもので、それは文字として悟りを表現することはできない
- 直指人心:人の心の内側を見つめ、固執を離れて、周りの雑事と距離を置く
- 見性成仏:自身の中の仏性をみつめ、気づく
- 坐禅は、悟りに至った仏陀の追体験を目指すこと
- 瞑想と坐禅はコンテンツもコンテクストも異なる
- 瞑想には煩悩を払うことや集中力を高めるなどの人間的な目的がある
- 坐禅は人間が人間を超えて仏になるために実施するもので、ある種の開店休業状態になることを目指す
- 第1章:私の座禅は正しい座禅?
- 近くのお寺で禅体験
- 息を数える
- 頭の中の雑念を留めることは出来ない、ドアから入ってくる。そこにもう一つドアをつくって出してあげるようにする
- 傍目からみて苦行であっても、それが自発的であれば、それは充実になる
- 坐禅というのは現状を無条件に受容するところから始まるものだったのに、現状を急に変えて理想に近づけようとしてもうまく行かない
- 自分の内外のすべてを使って座禅する
- 床からやってくる自分の体重への反作用の力具合や息が身体の中を通るときの感覚など、内外からのシグナルはたくさんあるが、
- こう座らなきゃ、という固定観念・基準を自分に押し付けようとするとそういうシグナルをほとんど見逃してしまう
- 坐禅はテクニックではない:いつまでも初心であれ
- 瞑想は強為・習禅・自力・テクネーで、坐禅は云為であり、他力であり、ポイエーシス。
- 近くのお寺で禅体験
- 第2章:正しく座るのも一苦労?
- 第3章:坐禅の効用って?
- 第4章:日本の禅、海外のZEN
- 終章:今夜、座禅をする前に
引用メモ
生活活動って、「我」が生じてから、我が自分を維持するための戦略の展開として始まっているんですね。それを人間はやめることが出来ないんだけど、唯一座禅することでやめられる。保留状態にできる。だから我ができる最高のことは、我を開店休業にすることです。