ねずこん読書記録

小さな会社を経営しています。読んだ本について書き残していきますー

記録#114 『ながい坂』のぼり続ける、これぞ人生。山本周五郎の集大成作品。

いつ読んだのか、黒木亮さんが書いた小説の中の登場人物が、バイブルのようにこの本を読んでいた記憶があり、大作を知りつつ手を伸ばしてみました。 

ながい坂 (上巻) (新潮文庫)

ながい坂 (上巻) (新潮文庫)

 

時代小説の大家、山本周五郎先生が書いた最後の長編小説。週刊新潮での連載に先立って先生が同誌に寄せた文章に、この本への想いが凝縮されています。

自分のちからで自分の道をひらいてゆく男を書きます。こういうと簡単なようですが、封建時代の、身分や階級や家柄の区分の動かしにくい場にあっては、個人の意志を貫きとおすことは、殆ど不可能だったのです。けれども彼は自分の道をひらいてゆきます。女、剣、権力、不正、かずかずの障害を、辛抱づよく、一つ一つ克服しながら、---ながい人生の坂を登ってゆくのです。登り詰めたところになにがあるか、自分のひらいた道が彼にとって満足なものであったかどうか、それを皆さんとご一緒に慥かめてみましょう。

主人公は阿部小三郎。身分の低い武家の生まれながら、8歳のときにより格の高い家の子供に嫌がらせを受けたとき、ながい坂を登るがごとく厳しい道を自らひらいていくことを強く決意します。幼少期のうちは剣を鍛え、書を読み、15歳で元服し三浦主水正と名を改めてからは、民を守るために災害と向き合い、主を助け、大規模な治水事業まで手を伸ばします。

しかし一筋縄ではいかない。時代は江戸末期。藩の中での権力争いは絶えず、さらに商人の力が強大になり藩の財政も彼らの喰い物にされている。そんな中で仕えていた主君ともども失脚し、あるときは開梱地で鍬を持ち、あるときは江戸まで出て貧乏長屋でうどん屋をやりながら、いつかまた故郷の地で主君と共に正しい政治を行うことを目指す。

ただの野心家?いえ、その心にあるのは自律と民を思う心です。出世が目的ではなく、あくまで目の前にある課題を、問いを、精一杯向き合きあいながら解いていくこと。

ずーっと続く、ながい坂。

いろんな苦しみがあります。家族・阿部家との不和、妻との関係、出身家を気にする周りの武士からの嫉妬。

その坂を、一歩一歩のぼっていく姿は、小説ながら本当に心打たれるものがあります。

いくつか、小説の中で心に残った言葉を引用。

「人間はたいてい自己中心に生きるものだ。けれども世間の外で生きることはできない。

例えば阿部の家で祝いの宴をしているとき、どこかでは泣いているものがあり、親子心中をしようとしている家族があるかもしれない。

自分の目や耳の届くところだけで判断すると、しばしば誤った理解で頭が固まってしまう、---いまわれわれはすっかり忘れているが、井関川の水は休まずに流れているし、寺町は葬式が行われているかもしれない。

わかりきったことのようだが、人間が自己中心に生きやすいものだということと、いまの話をときどき思い比べてみるがいい」

山本周五郎全集第17巻 『ながい坂』pp.31)

「医師からきびしく云われているのです」と岡野は主水正に云った。「食養生をきちんとなさらなければ、御回復はおくれるばかり、いまはどんなに高貴な薬よりも」

「医者の一つ覚えだ」主殿は遮って、首を振りながら云った。

「枯れかかっている老木に、濃い根肥をやればどうなると思う。老木にはその根肥を吸い上げる力はない。余った養分には虫がつくか、木そのものを腐らせるか、いずれにせよ逆に、老木の枯れるのを早めるばかりだ」

(同 pp.367)

「杉ノ木を見ると」と主水正は穏やかに云った。

「あれは杉ノ木だと思うのは人間の勝手で、杉ノ木そのものは、自分が杉ノ木だなどとは思ってもいないだろう」

「それはどういう譬えですの」

「周囲の評価とその人間の本質とは、必ずしも一致しないということだ」と主水正は云った。

「疲れたよ、もうねよう」

(同 pp.480)

素晴らしい小説だったので、記録レビュー自体も長くなってしまいました。

私が読んだ版は上下巻がまとめて1冊にされていたものでしたが、合計500頁で上下2段組。フォントはちーーーーーさい。

普通ならやめたくなるところ。それでもやめられない。

それがこの小説の主人公、阿部小三郎とその周りに集う人たちが織りなすストーリーの魅力なんでしょう。

ぜひじっくり時間が取れるときにもう一度読みたい、素晴らしい小説でした。 

ながい坂 (上巻) (新潮文庫)

ながい坂 (上巻) (新潮文庫)