ねずこん読書記録

小さな会社を経営しています。読んだ本について書き残していきますー

記録#59 『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』働く、を問い直す

センター試験の現代文にもよく登場する、鷲田清一先生の文章。今回のテーマは"労働"について。

労働=苦役、余暇=レクリエーション・リフレッシュ、という構図・コンセプトはこれからの時代でも活きるものなのか。そんなテーマで書かれた本です。

初版がでたのは1996年ですが、2018年のいまでも十分に"読める"本だと感じました。

だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

 

楽しい仕事もあれば、つらい余暇もある

仕事は原則辛いもの、おやすみ・余暇はそんな仕事に向けてリフレッシュしたり体を休める時間。

自分の両親世代の方々と話していると、多くの方はこんな考え方なんだと感じます。鷲田先生はそれに対して、果たしてそうだろうか、と切り込んでいきます。

労働を神聖化し、労働を核に生活が編成されているような社会、それは《労働社会》と呼ぶことができようが、そいういう労働のあり方は、少なくとも現代社会のマジョリティである中間層、つまりじぶんを「中流」とみなしている人たちの実感からは遠い。実際の労働現場、あるいは余暇のひとときをみてみれば、ほとんど何も生み出さないどころか消耗することを目指しているとしか思えないろうどうもあれば、充実した時間の空白もある。逆に空虚な時間を埋めるために働くこともある。たのしいしごともあれば、つらい遊びもある。

(中略)

 現代の都市生活の中には、「仕事」と「遊び」、「労働」と「余暇」の概念的な対比が桎梏と感じられるだけでなく、ときにはほとんど無意味とさえ感じられるシーンが、次第に増えつつある。 p12

この「労働と余暇の区別が曖昧に」というとき、決して「遊ぶようにはたらく人が増えているよやったー!」ということではなく、「仕事だろうと余暇だろうと、全てが"生産性を上げる"という目的のために最適化された活動になってしまっていて、それってもうどちらも"生産性向上活動"という意味で同一なのでは?」ということです。

休日にぱんぱんになるお手軽マッサージやさん、平日働く罪滅ぼし家族サービスをするお父さんたちであふれるショッピングモール、、、、、いろいろ感じるものがありました。

結局、働く、ということをどう考えるか

働く、ということと、余暇を過ごす、ということ。

鷲田先生のこの本は、働く、という視点から両者を捉え直していく取り組みでした。

この本のはじめでは「いきがい」というものについて語られていて、「働くことがいきがいだ、という人が一定数いる⇨さて、働くことの意味を問い直してみようか」というテンションで本文に入っていきます。

最後の最後、補章で、鷲田先生は仕事の意味を「自己実現だとか意味だとかを追い求めるのはある種の病で、仕事というのは自己の限界と他人のおかげ、ということを実感し向き合うところにあるんだよ」といいます。

新卒採用、中途転職のメディアなんかをみていると「もっとあなたらしく!」という表現が目立ちますが、私のしごと感も鷲田先生に近く、たとえ延々と続く雪かきであろうと、私たちはそこで仕事をすることが出来ると思いっています。それも、楽しく。

おわりに

補章の中で、プロ野球選手を目指しながらも叶わず独立リーグに進み、最後は芝生職人になる男性の話がでてきます。独立リーグという場で、自身の夢に「ケリをつけた」と。

それに続く、本章結びの文章。

希望のない人生というのはたぶんありえない。そして希望には、遂げる、潰えるかの、二者択一しかないのではない。希望には、編みなおすという途もある。というか、たえずじぶんの希望を編みなおし、気を取り直して、別の途をさぐっていくのが人生というものなのだろう。働くことには常に意味への問いがついてまわるが、その意味とは、たえず語りなおされるなかで掴みなおされるほかないものなのであろう。<務め>というのも、この時代、その語りなおしをきっと後押ししてくれることばのひとつであろうとおもう。 p189 

昨年読んだ、『クランボルツに学ぶ 夢のあきらめ方』という本にも、夢は進化していく、という話がありました。

まさに希望も同じで、常に編みなおし、進化していくものなんだと感じます。 

だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)