たなかの読書記録

スタートアップで働く人間が、読んでよかったなぁと思う本を紹介していきます。

記録#15『セネカ 哲学全集(5)』倫理書簡集、理性に生きる。

高校の世界史や倫理を学んだときにでてくる、ギリシャ哲学の流派。

  • ストア派:理性により感情を制すことで不動心に達することを理想とし、確固たる自己の確立をめざす
  • エピクロス派:死を恐れたり不安に思ったりすることは無意味であるとし、感覚に基づいた穏やかな快楽を求める

そのストア派の考え方を現代に残す哲人の一人がセネカです。

過去に読んだマルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』の中で、セネカの名前がたくさんリファーされていて、その代表作・倫理書簡集を読んでみました。

 

倫理書簡集は、書簡集の名の通り、晩年のセネカがルーキーリウスという親友に宛てた手紙をまとめたもの。
一つひとつの言葉に、この友人への思いやりが垣間見えます。

わずかしか持たぬ人ではなく、より多くを欲しがる人、それが貧乏人だ。どんな意味があるというのか、どれほどの財が金庫に、どれほどの蓄えが蔵に眠っていようと、どれほどの家畜を養い、どれほどの利ざやがあろうと。他人のものに手を伸ばそうとし、すでに獲得した財産ではなく、これから獲得しようとする財産の計算をしているのだから。富の限度はどこか、と尋ねるのかね。まずは必要なだけを持つ、次は十分なだけを持つ、というところだ。(pp.6) 

落ち着きを持って行動すべきであり、行動するときは落ち着くべきである。自然の理を相談相手に思案したまえ、自然は君に語るだろう、自然は昼と夜の両方を作った、と。(pp.9)

日々よく心の準備をして、人生を去る時に平静でいられるようにしたまえ。多くの人々は人生にすがりついて離さず、ちょうど濁流にさらわれる人が棘ある草も角の立った岩もつかむようだ。ほとんどの人は死への恐れと生の苦しみのあいだで不幸な漂泊をし、生きることも欲しないが、死に方も知らない。だから、君の人生を喜ばしいものにするには、人生の不安をすべて捨て去ることだ。どんな幸せなことも、それをいま手に入れている人に失ったときの心構えができていなければ、幸せにはしてくれない。しかるに、失ってももっとも気が軽くすむのは失って惜しいと感じられないものだ。それゆえ、どんなに強大な権力者にも降りかかりうる事態に立ち向かえるよう自分を激励し、心を強くしておきたまえ。(pp.10) 

賢者の自足はどれほどのものか。ときには自分の一部にも満足する。手を病気や敵のせいで切り落とされたとしても、何かの事故で片目か両目を無くしたとしても、残ったところで十分であると考え、一部を欠いた不完全な身体にも五体そろっていたときと同じように喜ぶだろう。しかし、落部分があったら良いのにと惜しむこともない一方、欠落している方が良いとも思わない。賢者の自足とは、このようなものだ。友人を持たぬことを欲するのではなく、持たずともいられる。「いられる」という意味は、つまり友人を失っても平静な心を保つということだ。(pp.28)

エピクロスから拝借することにしよう。「多くの人にとって富を築いても不幸は終わらず、変化しただけだった」これは不思議な事ではない。実際、疵は物ではなく、他ならぬ心のなかにある。貧乏を私たちの重荷としていたものが、富を重荷としただけだ。病人を寝かせるベッドは、木製でも黄金製でも違いはない。どこへ病人を移しても、病気も病人と一緒にそこへ移るだろう。それと同様に、病んだ魂の置き場所は富の中でも貧乏の中でも違いはない。病苦はあとをついてくる。(pp.66)

輝きと光には違いがある。光には確かな、それ自体の源を有するが、輝きはほかからの借り物で光る。(pp.80)  

自然は私たちに愚痴をこぼして言わねばならない。「これはどういうことか。私たちがお前たちを生んだときは、欲念も、恐怖も、迷信も、背信も、その他の悪疫もついてはいなかった。お前たちが入場したときと同じ姿で退場せよ」
知恵を感得した人とは、誕生のときと同じように不安なく死を迎えられる人のことだ。(pp.89) 

流れ行く世界を渡っていく、確たる自己を持つために。

実務でも成功し、政治でも様々荒波を乗り越えてきたセネカが送る、素晴らしい人生訓にあふれています。 

セネカ哲学全集〈5〉倫理書簡集 I

セネカ哲学全集〈5〉倫理書簡集 I